ポルノとしての私。別館。
2006-09-03T15:32:34+09:00
musigny2001
ご覧頂いてありがとうございます。ありていにいえば読書ブログです。更新は週一を目指しています。
Excite Blog
最後の晩餐の作り方/ジョン・ランチェスター・小梨直訳
http://musigny.exblog.jp/3597458/
2006-08-18T11:36:00+09:00
2006-09-03T15:32:34+09:00
2006-08-18T11:31:01+09:00
musigny2001
評論
発売中の食事専門誌「料理王国」のサブタイトルは「シャンパーニュを知的に、優雅に」である。「痴的に」ならば、キャバクラやホストクラブで一気呑みされる“ドンペリ”って思わなくもないが、シャンパーニュの知的って何?と思ってしまった。ま、シャンパーニュについての記載が十分だったの“知識”はあったけど、私の恋い焦がれる“知的”とはいささか雰囲気が違ったようだ。
さて、世界各国を席巻したとの帯宣伝の一冊。主人公は旅をしながら、まるでICレコーダーに自分が思いつくままの言葉を喋り流していくようなスタイル。核となるのはガストロノミーとしての知識だが、時には旅の景観を揶揄しながら、時にはヨーロッパの歴史や美術への蘊蓄を侍らせ、さらには自分の過去にも言及していく。止めどないおしゃべりに私たちは巻き込まれていくのだ。
個人的には、レストランで食事をすること、フランス語のメニューを解読し、ワインリストを睨め回すことが楽しい人なので(散々ギャルソンに質問を浴びせた後、コース料理とグラスワインを頼むことも多いけれど)、この本と付き合っている時間は楽しかった。ただこの偏執的な主人公が同時に殺人狂というストーリー展開があるわけだけど、スリリングさも謎解きの面白さを持ち合わせてはいない。本として、知識はあるが知的ではないのだ。ガストロノミー、アキバ系って感じです。
ただ、翻訳者には満点をあげたい。全体を占めるモノローグの進行に福田和也の文体を利用したのは大成功ですよ。]]>
グレート・ギャツビー/フィツジェラルド 野崎 孝訳
http://musigny.exblog.jp/3362474/
2006-07-09T14:13:00+09:00
2006-07-14T17:46:50+09:00
2006-07-09T14:13:41+09:00
musigny2001
フィツジェラルド
やっぱり綺麗な名作だと思う。ゴージャスかつ、憂いもあり、なによりキャラクターが瑞々しく描かれているのはホントに素晴らしいです。
第一次世界大戦後のNY郊外。語り部ニックは、隣人で豪華絢爛なパーティーを催すギャツビーからアプローチを受ける。ギャツビーの目的は、ニックの親戚でもあるかつての恋人・デイズィを奪い返すことにあったのだ。ギャツビーとデイズィは再会し恋は燃え上がるが、やがて悲劇的な終焉を迎えることになる。
ギャツビーは命を落とす結果になるほど、デイズィに恋していたのだけれども、デイズィにしてみれば少女時代のノスタルジィと夫の浮気に対する当てつけだっただけ。最終的にはデイズィは自分の罪をギャツビーに被せて逃げてしまい、結局ギャツビーの恋心は報いられることはない。かといって、ギャツビーもデイズィのなんたるかを理解した上での恋ではない。貧しい出自のギャツビーは成り上がっていく途中にデイズィを見初めたわけだが、デイズィは富の象徴でもあったわけで、ギャツビー氏が憧れていた上流社会と混同していたのである。
“男の恋は全て妄想”で、相手そのものというより、頭の中で膨張するイメージに囚われているわけ。デイズィはロクでもない女なわけだけど、ギャツビーにはそれを見抜けないというか、デイズィの本質を見ていない。じゃあ、女の恋って何かというと“庇護されること(経済力も含め)”ってなるのかしらん。断定的に書くのは批判されそうで怖いけど(笑)
野崎訳はちょっとまどろっこしい。特に出だしの部分とか一部のセリフとか。でも、原著自体がまどろっこしいので、野崎先生のご苦労が偲ばれます。年内に出版されるという村上春樹訳に期待しましょう。]]>
悪女の美食術/福田和也
http://musigny.exblog.jp/3312532/
2006-06-28T13:41:00+09:00
2006-07-14T17:44:54+09:00
2006-06-28T13:41:20+09:00
musigny2001
評論
福田先生は文芸評論家で、慶應大学環境学部の教授。雑誌FRaUに連載されていた「食」のコラムを単行本化したもの。「食」と言っても、家庭料理ではなく、主にゴージャスな外食を示す。そして悪女とは、退廃的で享楽に耽る麗しい女という意味になるのだろう。14のテーマと巻末のパリと香港のグルメ旅行記が、福田独特の文章、すなわち語りかけ文体と大いなる脱線、で紡がれている。
00 食べることは生きること。
01 一人で食事をして迫害されない方法
02 ドラマ仕掛けのフランス料理
03 ワリカンの嘘、オゴリ得、オゴられ損
04 ジェーン・バーキンならジーンズOK
05 怖がれば、怖さが薄らぐ高級寿司店
06 「おいしい」舌でわかる人格
07 菓子パンの昼食にはしゃぐ、恥知らず
08 逃げたいときにはエスニック料理
09 洗練と満腹のあいだ
10 「食べない」という麗しい選択
11 お弁当に捧げるロマンティズム
12 ブランド洋食器を買うのはおやめなさい
13 贅沢で、美しい、洋食の女性たち
14 この世の甘きものだけを味わっていく
福田自身が相当のガストロノミーであるため、マニアックな内容になっているが、注釈も充実しているため、読み進めるのは容易である。脱線が多い福田節は知識欲も刺激されるし、あとあと読み直してみたい一冊である。でも、主内容として良いのは5章まで。あとは、ネタ切れっぽい。
最悪なのは7章。私も美味しいもの好きだけど、毎回ご馳走が食べられるわけではない。仕方なく食べる食事というのは沢山あるのだ。ファーストフードだって、ラーメンだって、菓子パンだって仕方なく食べているのである。その「仕方ない」なかで、小さな喜びを見つけることが大事なんだとも思う。
いつも同じことを書くけど、他人が食べているものを悪く言ってはいけないと思うのよ。]]>
ローズガーデン/桐野夏生
http://musigny.exblog.jp/3297351/
2006-06-25T11:12:00+09:00
2006-07-14T17:48:34+09:00
2006-06-25T11:12:34+09:00
musigny2001
桐野夏生
対岸まで数百メールあるインドネシアのマハカム川。小さなボートは上流のジャングルの集落を目指して濁流を遡る。電装会社の駐在員である博夫は部品を届けるために波に揺すられている。揺すられながら博夫はミロのことを考えている。
桐野夏生の出世作でもある女探偵・村野ミロシリーズの番外編である。「顔に降りかかる雨」、「天使に見捨てられた夜」で、ミロは夫であった博夫に海外で自殺され、義理の父・善三の探偵事務所を引き継いで生計をたてている設定になっているが、博夫の自殺の経緯は両作品では語られない。本作は博夫とミロの馴れ初めから別離までの話である。
母を失ったミロは義理の父親である善三と一緒に暮らすことになるが、不自然さは隠し切れない。やがて二人は肉体関係を結ぶことで共存を可能にすることになる。母が手入れをしないことで、野生に戻りつつあるバラが咲く庭を持つ二人の家。ある日、高校の同級生である博夫はミロに導かれて家を訪れ、善三のベッドで二人は結ばれる。ミロは昼は博夫に抱かれ、夜は善三とベッドを共にする。ミロにおぼれる博夫はやがて結婚を申し入れるが、
「ミロの昼と夜を得たせいで、俺は心惑わされる混沌とした官能を永久に失った。皮肉なことに、俺は混沌を失うことによって大人になった。」(P.89)
ミロを愛しながらも結婚生活は破綻する。博夫は海外に単身赴任し、家政婦として雇い入れた少女の姿を盗み見たり、山奥の売春宿で少女買春をする。同僚にはロリコン野郎と卑下されている。でも、博夫の心は満たされない。若き肉体に知性と官能を備えたミロは戻らないのだ。
熱帯アジアの濁流と、ミロと博夫の青春時代を交互に描くことにより、濃密な作品になっている。男の官能は悲しく深い。この業を描き出すのが、女流作家であるのがものすごく不思議である。残酷でメランコリックな作品を読むのはやめにしたいと思うのだけれど、桐野夏生だけはやめられない。]]>
未妊 ー「産む」と決められないー/河合 蘭
http://musigny.exblog.jp/3274163/
2006-06-20T15:01:00+09:00
2006-06-20T15:01:47+09:00
2006-06-20T15:01:08+09:00
musigny2001
評論
妊娠・出産を自分の職業としながらなんだけど、私は少子化でも良いと思っている。特に日本の場合は有史以来未曾有の人口を狭い国土に抱えているわけで、環境の視点からは人口減は歓迎すべきことに思える。経済発展や国力などの問題は知ったことではないし、豊かな暮らしのために丁度よい人口のポイントに移行しつつある過渡期なのかもしれない。
ところが、個人レベルでは子供を持つことの豊かさは何にも代え難いものだという確信がある。愛玩対象として子供というわけではない。未妊者が一番嫌がるのは、愛玩具合を錦の御旗にして出産を勧められることなのは想像に難くない。でも私の確信はそれよりもイヤらしい利己的な理屈なのだ。
まずは自分の成長の問題。消費や娯楽などの性癖を控え、所謂大人になれたのは結婚・妻の出産が契機である。無論、幼稚な部分を残しているのは承知のうえだけど、子供がいなかったらもっと酷かった事が予想される。さらには自分が何時死んでもいいんだという観念が出現したことである。(もちろん、死にたかないけど。)このことを著者もp.188の後書きでも似たようなことを書いている。簡単に書くのは難しいけど、老化とともに限られてくる未来・可能性が、自己の複製を得ることで無限の可能性を取り戻すからである。この全能感は何者にも代え難い。
私は未婚・未妊を選んだ人に宗旨変更を強いたいのではない。ただ、本書は出産専門ジャーナリストが現代世相をきちんと網羅していて読ませる内容なので、一度目を通しておいてから結論づけてもよいのではと思う。]]>
存在の耐えられない軽さ/ミラン・クンデラ 千野榮一訳
http://musigny.exblog.jp/3033170/
2006-04-30T14:55:00+09:00
2006-07-14T17:51:17+09:00
2006-04-30T14:55:41+09:00
musigny2001
哲学・社会学
チェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家」って言われても知りませんでした、でも、大変面白く読んだのでお許しください(ぺこり)。
トマーシュの悲劇は、籠に入れて流されてきた小動物のような地方出身者のテレザを保護することから始まる。テレザは母親の呪いから逃れるためにプラハのトマーシュを愛するが、多くの女性とベッドを供にするトマーシュへの独占欲が抑えられない。トマーシュの愛人であった画家のサビナは、両親・チェコ・大学教授フランツの恋愛から連続の逃亡<裏切り>を繰り返さざるを得ない。典型的西側ヨーロッパ高学歴者のフランツは、守られているゆえに、冒険的な人生に憧れてやまない。やがて、それぞれが選択したことにより運命の幅が狭まっていく。
ソビエトの侵攻と支配が生々しく迫るストーリー展開も読み応え充分だけれども、性愛論・職業論・小説論などがこれでもか、これでもかと織り込まれていてもなんら破綻がない。でも、メインは人生における「軽さと重さ」の二項対立である。
作品冒頭にあるが、ギリシャの哲学者パルメニデースは、様々な二項対立を考えた中で、「軽さ」を肯定的、「重さ」を否定的に捉えたそうだ。作者は、人生の選択をしていくうちに、逃れられない運命に翻弄されていく人生を描いている。トマーシュはテレザに恋をしたあまり、ソビエト侵攻を受けたプラハを追われ、医師という天職を失い、やがて農村の運転手として生涯を終える。しかし、彼は幸福を感じているのである。
人生において選択をすれば次第次第に、自分の運命が狭められていく。「軽い」から「重い」へシフトしていく。かくいう私も結婚し、子供が生まれ、仕事を引き受けることで「重く」なってきている。でもいいもんだなぁと思っている。ま、この事については、後々も考えてみたい。その時取り上げる材料は桐野夏生の「柔らかい頬」になりそうな気がします。
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文明の憂鬱/平野啓一郎
http://musigny.exblog.jp/2954529/
2006-04-11T22:41:00+09:00
2006-07-14T17:55:21+09:00
2006-04-11T22:41:28+09:00
musigny2001
評論
若い時分からもっと古典・名作に親しんで知識を集め、仕事や生活に生かすべきであったけれど、この歳になってようやく理解できる名作も沢山ある。例えば、子供が出来て、初めて小説中の親の気持ちに感情移入したりとか。想像力が貧困ってことでもあるけど。
私より7歳年下の芥川賞作家、平野啓一郎の読書量の多さと認識力には、嫉妬を覚えつつも尊敬せずにはいられない。おそらくは、私のように「触ってみないと熱さが分からない」凡人ではなく、想像力にも長けているのだとも思う。頭脳だけでなく、文学と言葉文化にかける情熱も格別である。本作品は小説ではなく、雑誌「Voice」の連載を中心にまとめられたこのコラム集だけど、なかなかの読み応え。現代風俗を透徹した視線で鳥瞰し、、古典名作のデータベースを参照にしながら解析し、小林秀雄的大胆な文脈を構成する。平凡なコラムもあるが、「冒険というパフォーマンス」と「携帯電話の恋愛学」は秀逸。さらには今後もぜひ引用させていただきたい一文がここにある。
我々は、好むと好まざるに拘わらず、生きるためには、何かを殺して食べる必要がある。(中略)我々には、生き物の死に対する避け難い不安の感覚がある。そのために、我々の食するもの、利用するものから、出来るだけ「死」の不吉な痕跡を消そうと努力する。我々の日常生活の中に、そうした生存のための悲劇的な条件が闖入してくるのを防ごうと努力するのである。(p. 16「加工の技術」 )
でも、ニヒリスティックで情熱やユーモアに欠けるところがある。もっと「人生体当たって砕けろ!」みたいなことがあってもいいと思うけど・・・。でも、セックスの意味がわからずに、40過ぎてからデリヘルで働く中村うさぎのコラムなんか絶対に読みたくないけど。]]>
春の雪/三島由紀夫
http://musigny.exblog.jp/2900859/
2006-03-30T23:45:00+09:00
2006-07-14T17:57:48+09:00
2006-03-30T23:45:54+09:00
musigny2001
三島由紀夫
「春の雪」は完成度の高い恋愛小説という側面も保つと同時に、問題作である「豊饒の海」シリーズの1作目にあたる。平和な読書生活を過ごすのであれば、前者の側面を選択すればよいわけで、波瀾万丈な小説世界に漕ぎ出す意思が十分であれば、後者を選択するべきである。私は長い航海を終えて十分に満足・納得しているが、多くの評論家が記すように、その最終作は恐ろしく陰惨でもある。満足している私とて、作品を巡っての思考の迷宮からはまだ脱せず、前のレビューとの間が空いてしまった。(ごめんね。)
「豊饒の海」は、輪廻転生を中心に据えた「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と続く物語である。4人の(正確には3人の)短く激しい生涯を、真の主人公である輪廻の観察者、本多繁邦が見守っていく連作なのである。しかし、第一巻では、ところどころでは輪廻についての布石は打たれているけれど、本多自身が輪廻転生に気が付いているわけではないので、松枝清顕と綾倉聡子のラブロマンスとして捉えることが出来るのである。
日露戦争の終焉後が舞台。倒幕で名をあげた松枝侯爵家の一人息子、清顕は線の細い美しい青年に成長していた。幼なじみの綾倉聡子は清顕に思いを寄せるが、清顕は自身の美しさに見合う恋愛対象ではないと、聡子の思いをやり過ごす。しかし、聡子の宮家(天皇家)への嫁入りが決まると同時に、自分の恋愛には障害こそが不可欠であったと清顕は気づき、恋が高らかに舞い降りるのである。結ばれた以降も逢い引きを繰り返す二人であったが、終焉の時は近づいていた。
個人的に恋愛小説としては勧められない。というか自分が恋愛小説には興味がないうえ、清顕というキャラクターがみっともなくて滑稽なので感情移入できないのである。最期にはストーカーになっちゃうしね。しかし、聡子は筋が通っており凛として美しさが目立つ。でも彼女の本質は「天人五衰」まで持ち越されるのである。(こう書くと「春の雪」で止まっている人は続きを読みたくなるでしょ。)所々に布石があるし、二人以外のキャラクターのその後が気になるところ。やはり大いなる航海へ進むことがオススメです。
一年前のツヅラさんにTB]]>
宇宙からの帰還/立花隆
http://musigny.exblog.jp/2781280/
2006-03-05T17:04:26+09:00
2006-03-06T05:58:54+09:00
2006-03-05T17:04:26+09:00
musigny2001
自伝・ノンフィクション
GPSや天気予報などの宇宙開発の恩恵はありがたいと思っている。でも、先日宇宙飛行士となった野口さんにはまるで興味が湧かなかった。繰り返される“無重力”と“地球の青さ”と“宇宙食”の話は新鮮味が薄い。浅薄な知識しかないテレビの視聴者にアピールすることは、その三つしかないんだろうけど、世界最高峰の科学者でもある宇宙飛行士なのだから、もうちょっと内容の濃い話をしてくれていい。そして何よりももっと人間味溢れるエピソードが聞きたいのだ。
本書は、NASAのマーキュリー計画(1961年)からアポロ・ソユーズ計画(1975年)へ参加した宇宙飛行士達の物語である。1983年初版であるから、書かれた時点で宇宙に行った日本人は存在しない。ちなみに、TBSの秋山さんが崩壊前のソ連のソユーズに搭乗したのは1990年である。スペースシャトルの初回飛行は1981年であり、毛利さんがエンデバーに搭乗したのは1992年である。
立花の他の著作と同様に、綿密な調査とインタビューをもとに構成されており、宇宙への知識や興味をベースに持たなくても充分楽しめる内容となっている。本書の内容の根幹を為すのは、「宇宙に行って何が変わったか?」である。たくさんの登場人物がいるが、新興キリスト教の伝道師となった人もいれば、精神に異常を来した人もおり、政治や経済の分野での成功者もいれば、何も変わらないと断言しNASA勤務を続ける人もある。外観だけでなく、精神の内面まで深く立花は追求していく。アメリカらしいエピソードを持つ宇宙飛行士を並べた後で、最後には哲学的に神を意識する飛行士のインタビューで終わるところが憎らしい演出である。
本書を読んで少しだけ宇宙に興味が湧いた。お金もないし、競争率の高い試験に受かる可能性もまるでないんだけど。
本書を紹介してくれたminatoさんにTrack Back
Exiteの中ではfushigihoneyさんにTrack Back]]>
博士の愛した数式/小川洋子
http://musigny.exblog.jp/2740324/
2006-02-24T22:06:51+09:00
2006-02-24T22:53:45+09:00
2006-02-24T22:06:51+09:00
musigny2001
小川洋子
なんという美しい構造を持った小説だろう。非日常的な事柄(数学、80分しかもたない記憶、江夏豊)が、中編小説に盛り込まれていても何一つ乱れがないのだ。
家政婦である私が新しく派遣された先は、過去何度も家政婦が交代する問題の家だった。すさんだ離れに済む初老の男性はかつて数学者であったが、交通事故で記憶の障害をもっていた。1975年以降に生じたことの記憶は80分しかもたないのだ。ゆえに、毎日彼女は“博士”に自己紹介をし、その度に交わされる数字をもとにした風変わりな挨拶を行う。彼女は次第次第に博士の暖かさと数字の持つ魅力に惹かれていく。シングルマザーであった彼女の10歳の息子も、博士に毎日“√”と名付けられ博士の不思議な愛情に包まれていく。
数学という題材を発見した著者に敬意を表したい。数学と試験はカップルであることから私とて数学嫌いである。しかし、正解を得た時に感じる喜びや解放、そして静けさは素晴らしいものだということを思い出した。そして、その数学という破綻なき題材に呼応するかのように、小説は完璧な円環構造をもっているのだ。
著者は、「海辺のカフカ」のように“不完全な小説”を書く能力がある。文芸世界には”不完全”が流行している。“不完全”は読者に考える余地が与えられる。だから、インテリに好まれ“不完全”の著者もインテリであるという称号を得る。逆に綺麗な破綻なき”完全”な小説は大衆化の誹りを免れない。でも、数学を題材に扱うのであれば、”完全”な構造が似合う。でも著者の”完全”は決して幼稚ではない。だれでもが楽しめる極上のエンターテイメントである。
この小説を楽しむ上で、一番口惜しかったのは本の帯である。映画のキャスティングが書いてあるのだ。見事なキャスティングだと思うけど、本を読んでいるときに彼らをイメージしてしまった。ちょっと想像の自由度が少なすぎた。
Track Backはmarinさん。]]>
国家の罠/佐藤慶
http://musigny.exblog.jp/2664814/
2006-02-09T22:43:32+09:00
2006-02-26T17:11:20+09:00
2006-02-09T22:43:32+09:00
musigny2001
自伝・ノンフィクション
政治色嫌いの方が、本書を手に取ることはあまりないと思う。しかし、佐藤優というヒーローが立ち向かう冒険活劇、すなわちエンターテイメントとしても読めるような工夫が本人によってなされている。
外務省の汚職事件が次々に発覚し、小泉総理政権発足と共に誕生した田中真紀子外務大臣に国民の期待が寄せられていた時、自民党橋本派の鈴木宗男衆議院議員が「悪しき古き体質」としてターゲットにされた。官側すなわち外務省としてのメインの人柱は、著者である佐藤慶であった。佐藤は北方領土問題の解決に向け使命を帯びたロシア担当のノンキャリアの外交官である。検察の逮捕は国民の世論を背景にした国策逮捕であった。常人なら強烈な取り調べに罪状を認めてしまうはずだが、佐藤は明晰なる頭脳とタフネスぶりを発揮して、検察の取り調べに対し論陣をはっていく。そして執行猶予付きとはいえ有罪判決となる。もちろん、佐藤は即控訴をした。
ゴルバチョフ政権崩壊、エリツィンの台頭を経由して、プーチンに至るまでのロシア事情や、北方領土問題解決・平和条約締結を目指す鈴木宗男をも巻き込んだ日露交渉舞台裏話もさることながら、クライマックスは逮捕後の佐藤と検察官西村との頭脳ゲームというべき取り調べである。冒頭で書いた通り、単純に面白いのである。ただ、著者の側に立てば、本書を書き表した理由は「何故国策逮捕がされたのか?」である。
著者はその理由を構造改革とする。P292からの数ページは小泉政権の論理の怖さを丁寧に解説してある。ちょっと要約は手に余るので避けるけど、小泉首相の”一言コメント”に騙される前に本書を読むのが肝要。]]>
青の時代/三島由紀夫
http://musigny.exblog.jp/2630263/
2006-02-03T00:48:58+09:00
2006-02-24T22:40:24+09:00
2006-02-03T00:48:58+09:00
musigny2001
三島由紀夫
三島由紀夫が時代を象徴する作家だったとはいえ、戦後に起こった“光クラブ事件”を題材に書かれた本作は肩透かしの小説である。昭和24年、“光クラブ”という 高利金融業を営む26歳の東大生、山崎晃嗣が銀行法違反にて逮捕される。その後釈放されるが、会社破綻と同時に山崎は青酸カリを煽って自殺した。やや淫蕩でもあった山崎は当時の世間を騒がせたようである。(詳細はこちら)事件そのものが面白いのに、三島が手を加えたにしては、全体のボリュームが少ないのが肩透かしの原因とみられる。
でも、この作品が面白いところは3つある。まずは時代性である。戦後のレトロな東京を味わうにはよいし、時代を駆け抜けた“悪の華”として事件はロマンティックである。次には、主人公の川崎誠とヒロイン耀子との恋愛の駆け引きである。川崎の屈折ぶりと耀子のエセ悪女っぷりが楽しい。三島ならではである。最後は“金の亡者”(ちょっとダメな慣用句だ。)の主人公の心情を三島が想像したことにある。
「僕に云わせれば、軽蔑する権利を得るための戦いが征服です。ある価値を征服したいと思う僕の目的は、ただただその価値を軽蔑したいにすぎません。」(p.176)
稼ぐことは生活の自由度を上げるし、悪いことではないと思う。でもそこへの執着はやはり屈折した心情を想像させる。社会に恨みがなければ、過激にはなれないよね。山崎=川崎=ライブドア堀江氏。人物像が錯綜していろいろ考えさせられた。やはり「金で買えないものは何もない。」(なんと本文p.75にもある)の言葉の裏側を考えなければならない。この小説の旬はまさに今である。
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虞美人草/夏目漱石
http://musigny.exblog.jp/2594017/
2006-01-26T23:55:14+09:00
2006-02-24T22:40:37+09:00
2006-01-26T23:55:14+09:00
musigny2001
夏目漱石
巻末の柄谷行人の批判的解説がなかったらすっかり騙されるところだった。「漱石」ブランドの前に真っ当な判断力を失っていた。冷静に考えれば、とにかく変テコリンな小説なのである。
将来を嘱望される小野は、学問を続けるため財産のある藤尾という女性との結婚を願う。当世風の藤尾とて、洒脱な小野を恋の相手として不足なしと迎合する。藤尾の腹違いの兄である甲野から亡き夫の財産を奪いたい藤尾の母にとっても、小野の婿入りは歓迎すべき事であった。しかし、小野の恩師とその保護している娘が上京する。小野は結婚の約束を過去にしていたのである。小野は彼女を疎ましく思い、藤尾との結婚を急ぐ。甲野と親友の宗近は、小野の行為が道義的に間違っているとして藤尾との恋を断罪し、小野に反省をさせる。
正義のヒーローという意味では、主人公は甲野と宗近。そんな物語の骨組みも変だけど、一番無理な設定は、結婚破棄を知ったプライドの高い藤尾が卒倒してその場で死んでしまうところである。甲野と宗近は、藤尾の死に責任を感じないばかりか、藤尾の霊前で打算的であった母をも責める始末である。作者は、道義・道徳を説きたかったんだろうけど、そんなこと言ってたら、現代日本女子なんて絶滅の危機にさらされちゃうよ。
まあ、小説というのは文章が美しければ良いという側面もある。ストーリーを読み直す気はさらさらしないけど、漢字率の高い韻を踏んだ文語体にはうっとりさせられて、また味わいたくなる。今回感動したのはこの言い回しの中の甲野と宗近が京都から帰るシーンなんだけど、
「眠る夜を、生けるものは、提灯の火に、皆七条に向かって動いて来る。」
夜行列車に乗るために京都駅に行くってことですね。七条が京都駅を意味することがわかったのが凄く嬉しかったのよ。
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吉田茂 -尊皇の政治家-/原 彬久
http://musigny.exblog.jp/2548558/
2006-01-18T12:31:06+09:00
2006-01-18T15:30:52+09:00
2006-01-18T12:31:06+09:00
musigny2001
自伝・ノンフィクション
私の吉田茂の記憶といえば“腹上死”である。無論、吉田は89歳で亡くなっているし腹上死ではない。「小説吉田学校」(未読)っていうのが学生時分に流行っていて、著者の戸川猪佐武が年下の愛人とセックスしていたら死んでしまったらしいのだ。その時に“腹上死”って言葉を初めて知って衝撃を受けた。そんな“バカヤロー”の私にも、“吉田茂”と“腹上死”を切り離す季節がやってきた。
明治維新の混乱を駆け抜けて成功した実父と養父の2人を持つ吉田は、外交官としてキャリアを出発する。英国に駐留したことから、列強諸国と自国の差を痛感。国際状況に鑑みずに暴走する軍部を非難し、停戦を策謀する。戦後は首相となり、GHQとの交渉をもとに新憲法を立ち上げ、果てにはサンフランシスコ講和条約に出席する。ワンマンと言われた宰相の歴史。
本書の特徴は、現代の迷路に入り込んだ政治状況から、後方視的に吉田を俯瞰するところにある。多くのページが割かれているのは憲法第9条、武力放棄である。再軍備を迫るアメリカのダレスを、吉田はふにゃふにゃした態度(吉田ドクトリン)で煙に巻く。最終的には武装化せずに経済発達に集中出来る状況が作られたワケだけど、玉虫色の憲法解釈は未だに日本を悩ませている。
そして、憲法第1条である。大久保利通の流れを汲み、皇太子である昭和天皇が英国を訪問した際に案内したのは吉田である。戦争の責任で辞位を漏らす昭和天皇をよそに天皇制の維持に努めた。歴史に”もし”はないとしても、天皇の責任を明確化していたら、中国を含めたアジア諸国との外交は変わっていただろうと筆者は指摘する。
さて、吉田茂は天皇陛下が好きだったってことがよく分かった。以前読んだ「水平記」に吉田が松本治一郎を毛嫌いしていたとの記載の理由がよくわかった。さあ、次は“腹上死”の本をトライ!(←ウソ)
文章は平易で読みやすい本なので、興味がある方にはオススメです。]]>
PAY DAY!!!/山田詠美
http://musigny.exblog.jp/2519367/
2006-01-12T21:43:29+09:00
2006-02-24T22:54:03+09:00
2006-01-12T21:43:29+09:00
musigny2001
山田詠美
読後感に起こる本当にわずかな暖かな気持ちと裏腹に、沸き上がるタイトルへの疑問。”PAY DAY!!!”がこの小説にふさわしいタイトルとは思えないのだ。推察するに、山田が同名のタイトルの小説を書きあぐねている最中に、あの事故が起こったのだろう。
両親の離婚を機に、双子(※)の兄のハーモニーはアフリカ系移民の父についてニューヨークからサウス・キャロライナに移り住む。妹のロビンはイタリア系移民の母とニューヨークに残るが、夏休みを利用して父と兄のところへ遊びに来るところから物語は始まる。そしてニューヨークに戻ったロビンに、9月11日は訪れる。ロビン自身は無事だったが、母はワールド・トレード・センターで働いていたのだ。その後ロビンは父のもとに移り住むことになり、ハーモニーとロビンはそれぞれの恋を通して成長していく。
2001年9月11日。あの日に起こったこと、それから続いたことに対して、私は未だ整理して書くことができない。でも当日に考えたことを敢えて告白するならば、「やっぱり起こったな」ということと、未曾有の不景気が起こりうる前の自分の財産心配であった。イスラム世界からアメリカへの報復がいずれ起こるであろうことは想像していたので、それか正に起ったってことであり、また私の保有する株の株価はぐーんと下がったワケだ。しかし山田の思いは下世話な私とは大きくかけ離れていた。感受性に富む山田はいてもたってもいられなかったに違いない。ニュースの中で立ち上り降り注いだ塵芥のむこうに、無数の感情を見つけてしまったのだろう。映像の空に飛びかったセルフォン(携帯)の透明線を想像せずにはいられなかっただろう。
しかし 山田の作家としてカルマはよしんば許したとしても、タイトルとの整合性といい、本作の完成度は高くない。この本よりは他の作品をお薦めしたい。
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※ ツインはもちろん、ツイン・タワーのメタファでしょう。]]>
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